2015年3月14日土曜日

七郷堀─消えていく堀


 1月の終わりから2月にかけて、七郷堀のことを話す機会があった。といっても、堀を丹念に探索しているわけでもないし、歴史にくわしいわけでもない。そうだ、とひっぱり出したのが『ふるさと七郷』という本。平成5年発刊だから、もう四半世紀も前のこの本の制作にかかわった。ちょうど荒井の区画整理事業が始まるときで、地元の大正から昭和初め生まれの人たちが、地域が変わる前に記録しようと「七郷の今昔を記録する会」を立ち上げたのだ。その会のお手伝いをしながら、機械化前の農業を知る会のメンバーの方たちに、いろんなことを教わった。


               『ふるさと七郷』1993年発行
                  企画/七郷の今昔を記録する会
                  発行/(有)タス・タスデザイン室

 何人かで手分けした編集作業の中で、七郷堀の担当になったこともあって、七郷堀の話もいろいろお聞きし、実際に堀を探索したりもした。中でも、七郷土地改良区の事務所にうかがい、事務局長の渡邊喜宣さんからは、堀の変貌やその管理について詳しくお話をいただいた。(渡邊さんはお元気でいらっしゃるでしょうか?)田んぼの仕事が始まる春、改良区の方々が愛宕堰まで出向き、堀の上に角材を入れ込んでいく「角落とし(かくおとし)」という作業に同行することもできた。 
 そのとき、頭の中に、太い血管である広瀬川から取水された水が、毛細血管のように細やかに東へと広がり、田んぼをうるおしていくイメージができあがった。堀は家のまわりにも導かれて居久根を育て、台所仕事にも使われ、子どもたちの格好の遊び場にもなっていたことも知った。
 
           堀は屋敷のまわりをめぐった。想像以上の大きな流れだ。(『ふるさと七郷』より)


 私なりの大発見は、江戸時代の絵図の七郷堀近くに「堰守」と記された屋敷があり、何と当時なお、そこには七郷土地改良区と連絡を取り合いながら、取水量を調整する大黒さんという方がお住まいだったことだ。大黒さんをたずね、そのようすを写真におさめることもできた。そのとき大黒さんに、「代々堰守をなさってきたのですか?」とたずねたら、「そうです」という答え。おそらく、七郷堀が整備された藩政期初頭から、堀を守る要職にあったのだろう。
 いまなお悔やまれるのは、大黒さんのお宅を撮影しなかったことだ。軒が低く、入ると土間で、天井はなく、堀側に向かって開かれた縁側はガラス戸ではなく雨戸と障子だった。間違いなく江戸時代に建てられた民家だったと思う。
 戦後、愛宕堰が整備されるまでは、七郷堀と六郷堀の取水口がそれぞれにあったから、上流の七郷堀に水が入ってしまうと六郷堀まわらず、渇水期には血を流すようなケンカも起きたということも教えられた。「鎌持って、愛宕堰のとこに行くのさあ」と聞いたことがある。

 この大震災のあと沿岸部の歴史を調べ、七郷堀の整備が1611年に東北を襲った慶長の大津波のあとの、復興の中で延長されていったことを知った。今回の大震災と同じような被害を受け、塩をかぶった荒地を水田にしようと鍬を手に、東へ東へと果敢に新田開発を進めた人々の歩みともに、水は村のすみずみへ運ばれていったのだ。
 しかし、こうして生まれた堀も、田んぼが消失するとき、その運命をともにする。25年前に渡邊事務局長さんから「荒井の区画整理事業が進めば、いまある堀は消えてしまうでしょうね」という話を聞いたことを思い起こす。確かめてはいないけれど、大規模な開発によって堀の多くは姿を消しただろう。いま沿岸部では、水田の再整備が進んでいる。また、ここでも長く使われてきた堀が閉じられていくに違いない。
 堀は農業用水という最大の役割を担いながら、それ以外の用途を豊かに生み出し流れていた。水辺には、かかわる人の姿があった。そんな風景が消えていく。消失は何をもたらすのか。いまは水土里ネットと名前を変えた土地改良区を訪ねて話を聞きながら、考えてみようかと思う。
 


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