2014年1月31日金曜日

1月25日 忘れ得ないあの子



神社の境内。堤防の工事や北側を走る県道の工事で、もともとの姿からはずいぶん変わったという。
 旅立稲荷神社の境内をもう一度みておこうと思い、翌日再び河原に行く。まるで春のようだった陽気は一転、夕方の河原には肌を刺すような空気が満ちていた。日の陰る中で寒々しい境内を眺め見る。お参りの人はなく、なんだか大ケヤキの枝もふるえているように見える。土手に上がると、対岸の工事中の市立病院の上にかかる雲の後ろから、いま沈もうとする陽が射している。堤防の下に、水の流れが一筋、白く見えた。若林3丁目の安達勝さんに聞いた話が頭に浮かんだ。

広瀬橋の下右岸では、新しい市立病院の工事が進んでいる。
 「旅立稲荷から少し下がったあたりで、川の真ん中に戦後進駐軍が大きな穴を掘ったんですよ。砂利を採るためにね。5メートルはあるような大きな穴でね、そこで子どもが亡くなってるんです。穴の中に入ると、そこで水の流れが変わって渦巻くからね。私も2回くらいおぼれかけたんですよ。小学校2、3年のころだね。泳いで助けてくれた人がいたからよかったけど」
 同じ話を旅立稲荷神社の荒井浩さんもしていた。「アメリカ兵がトラックで砂利採りしてたんですよ。プールつくるのに砂利が必要で穴を掘ったんだ。そこで子どもが一人死んだんです、近所の子がね。もう大騒ぎになって」
 安達さんと荒井さんの年齢差は8歳ほどなのだが、お二人とも戦後の広瀬川の記憶をたどると思い出す出来事なのに違いない。アメリカ兵の姿も大きなトラックも印象深かったのだろうか。もしその子が生きていたらいくつぐらいになったのだろう。75歳ほどだろうか。戦後、もう70年近い時間が経っていることを思い知らされる。


お地蔵さんも冬の装い。

 境内に戻ると、お地蔵さんがよだれかけに帽子をかぶり、首にマフラーを巻いて座っている。帽子は毛糸で、マフラーはノルディック柄だ。寒そうだからと、心やさしい近所の人が持ってきて巻いて上げたのだろうか。このお地蔵さんは、その痛ましい事故を見ていただろう。生きられなかった70年を思って手を合わせた。

2014年1月30日木曜日

2014年1月24日 下流の川で思うこと


広瀬橋たもとの旅立稲荷神社。もともとのケヤキの樹形を教えてくれるような伸びやかな姿だ。
 広瀬橋のたもとから河原に下りて、下流へ歩く。天気予報では、3月下旬並の気温になるとか。歩いているうちに気温が上がってきたのがわかった。
 歩き始めてすぐ左手に、旅立稲荷神社の大ケヤキが迎えてくれるように立っている。いつも上りの新幹線に乗るときは、このケヤキを見るために左側の座席に座る。江戸時代、参勤交代を見送ってきたケヤキだ。広瀬川を渡れば、もうそこは城下の外になる。旅立ちの不安と期待を人はこの木に重ね見たただろう。まるで球体のような見事な枝ぶり。ケヤキって素直に育つとこんな美しいかたちになるんだ、とあらためて思う。根はどのぐらいまで広がっているんだろうか。ぐんぐん地中に根を伸ばし、川の伏流水をたっぷりと吸収し育った木だ。

 旅立稲荷神社の宮司、荒井浩さんのお話をうかがったのは、昨年の6月、暑い日だった。「私が小さいときから、ケヤキは大きかったよ。2本生えて二股のようになっていたけれど、北側の一本は切られたんだ。戦後の水害のときは、広瀬橋の上から宮沢橋が流されるのを見てたよ。屋根の上で人が助けてーといいながら流されていくのも。あの人は助かったんだろうか。堤防の工事が始まったのは昭和28年。前の堤防はいまより150センチぐらい低かった。社務所から水が見えたからね」
 荒井さんは魚捕りはしなかったが、ずいぶん泳いだと話す。対岸へ泳いで渡り、宮沢橋の下で、また少し下流の宮城化学工業の下で、なんと3月から泳ぐこともあったらしい。泳ぎの達者な子には、深いところの方がおもしろいのだろうか。「あそこは深かった」という話が何度も出る。それは、前後して話をうかがった安達勝さんも同じ。いままで、広瀬川の取材でいろいろな方にお会いしたけれど、ここまで具体的な場所を指し示して、「あそこは…」と話す人はいなかったことを考えると、やはり下流は人との接点が多いのだと思う。下流域の人にとっては、流れはすぐそこにあるものなのだろう。

古くからの農家だろうか。大きな畑があった。
 歩いていくと、新しい住宅やマンションの間に、畑を構えた農家とおぼしき屋敷や、昭和30年代に立ったと思われる住宅があらわれる。田畑の中に工場が立地し、そのまわりが宅地化されていったのが、いま工場は撤退し、その跡地はマンションやスーパーになりつつある。ゼラチンの生産で知られる宮城化学工業の跡にはマンションの工事が始まっていた。高い建物が増えて、やがて視界をさえぎるなるのだろうか、と心配になりながら、対岸の八本松マンションを仰ぎみる。巨大な軍艦のような建物が川岸に立つことが決まったとき、反対する人たちはいなかったのだろうか。


対岸に立つ八本松マンション。
宮城化学工業跡地にも大きなビルが建設中だった。
 空間の認識は変わってゆく。かつては大きなマンションが新しい時代のシンボルだったのかもしれない。でもいま、これだけ建物が高層化、密集化する中に暮らしていると、遠くまで見通せる開放感あふれる空間がいかに貴重なものか、下流の河原を歩くとその実感がわき起こる。
 犬を連れてやってきて、誰もいないのを見ると10分ほどリードをはずして遊ばせる人がいた。右から左へ、全力疾走のわんちゃん。飛び跳ねてよろこぶ躍動感がこちらにも伝わってくる。何台か車が止まっていて、近づくとこちらはゲートボールに打ち込む男性グループ。静かな一人の散歩の人がいれば、スロージョギングの人もいる。いろんな過ごし方を、下流の川は受け止めている。

千代大橋のアーチを望む。