2012年3月30日金曜日

北帰行、そして春をむかえて

 週末の大雪に驚きながら3月が過ぎた。長くてきびしい冬だった。川が凍っているのを宮沢橋の上から見たのは2月下旬くらいだったろうか。左岸から右岸まで、凍った上に雪が降り積もり、真っ白な川面が光に照らされて輝いている。信号待ちで停車中だったのだけれど、初めて見る広瀬川の表情に、ついうっとりと見とれた。
 宮沢橋の下を、飛来した白鳥がねぐらにしていて、夕方4時ごろになると川岸に何羽も戻ってくる。その時間を見計らってか、川岸には餌をやる人の姿もあった。3月はじめのテレビで、今年の白鳥の北帰行は遅れる、たぶん3月下旬まで白鳥はとどまるだろう、というのを聞いた。シベリア高気圧が発達し、例年にない極寒の天気に白鳥たちも北へ戻れないというわけだ。
 その日から、橋を通るたび白鳥を探し、今日はまだいる、と確かめる日が続いた。春の彼岸に入っても白鳥はいた。18日にも、20日にも川岸にその姿を確かめた。23日の夕方、橋を車で通りながら川面をのぞくと白鳥の姿が消えていた。北帰行は、この日だったのではないだろうか。
 何羽もの群れが、ひたすら北へ向かいながら、その小さな光る目に何もなくなった海岸線の風景を映すのを思い浮かべた。一羽も脱落することなく飛べ。そう願わずにいられないのは、自然の猛威をこの大震災で思い知らされたからか。
 白鳥のいなくなった川は、からっぽになったように見えた。でも、目をこらせば水鳥が、風でさざ波の立つ川面を忙しそうに動いている。
 3月30日。仙台の気温は20度をこえた。ようやく水がぬるむ。今年の春は水鳥の名前を覚えよう、と中州が取り払われ広くなった川を眺めながら思う。

2012年3月24日土曜日

3月22日 支倉に架かっていた橋の名残は

  26回目の「広瀬川の記憶」。小野幹さんからお借りしたのは、市民会館の上から撮ったと思われる支倉近辺の写真だ。写真左には、赤門自動車学校のコースが写っている。ここには、対岸の支倉通南端に向かって、橋が架かっていた。といっても、元禄時代までのことだけれど。大洪水で橋は流され、架け替えられることはなかったが、対岸の仙台二高の東側には「元支倉」という地名が残る。この橋のことを書こうかと思いながら、強風の中、澱橋近辺を行ったりきたりする。 
支倉の崖の上。東日本大震災の前に崩落したという崖。


 赤門自動車学校側から対岸を望むと、崖が2カ所、大きく崩落していた。この崩落は東日本大震災の前のことらしく、復旧工事着工も早くて、崩落した部分はコンクリートが塗られ、崖の根元の護岸工事が済んでいた。
 澱橋を渡り、新坂を上って知事公館のところから東へ向かい、支倉通に入って、いまさっき赤門自動車学校側から眺めた崖の上に立つ。崖の高さはどのくらいだろう。10メートルぐらいか。江戸時代はここをジグザグに下りる道があり、そこから小さな橋が架かっていたらしい。
 支倉通の南端は支倉丁。この町名は、支倉常長の養父が住んでいたからと伝えられている。崖側に立つ家々は門を閉ざしている印象が強いが、1棟、低層のマンションがあって、1階部分の駐車場から川が望めた。ちょうど蛇行する崖の上だから、見事な眺望が広がる。

いまも湧き続ける井戸水を引いた池。
 向かい側の家の庭に、植木ばさみを手に梅の木を眺める女性がいる。話しかけたら、お庭に通され屋敷奥の井戸まで見せてくださった。「支倉六右衛門のころからの井戸だって、主人はいってたのよ」という井戸は、枠が秋保石だ。近くの高層マンション建設で水位は落ちたそうだが、いまも池やおふろに使っているという。よく澄んだ池の水の中を大小さまざまな金魚が泳いでいて、枯れた色の庭の中で、朱色がひときわ鮮やかに映る。ここに引っ越して2代目なこと。亡くなられたご主人が庭いじりが好きだったこと。たまに帰ってくる息子さんが池の掃除をなさること。しばらく立ち話をする。庭にはは家族の思い出が詰まっているのだ。帰りには梅の小枝をくるりと新聞紙に包み持たせてくださった。


新坂で出会った猫。

2012年3月17日土曜日

3月11日 鉛色の空の下、震災1年目の日に

2012年3月11日の広瀬川。雲が重くたちこめ、川面も暗い雲を写し込む。



◎気づけば1年が過ぎて

 どんよりとした空の下で、あの日から1年目の今日を迎えた。夏ぐらいまでは何年もたったような気持ちがしていたのに、気づけばあっという間に時間が過ぎている。そして、1年がたっても、被災した方々が仮設住宅に移り、がれきが撤去されただけでまだ何も状況は変わっていない、と感じる。たぶん多くの人が同じ思いだろう。一方で、仙台市中心部はもう震災の影響は何もないといえるようなにぎわいだ。被災地との何というギャップ。
 まだ、震災発生後の3、4ヶ月ぐらいのときの方が、よりよい方向に変われるような期待が抱けた。いまは、ずるずると長いトンネルの中に入りこんでしまったかのよう。被災した人たちのこれからの暮らしはどうなるのか。そして海岸沿いの集落の跡地と田畑はどうなるのか。何も見えない。
 もちろん私にも日常の時間は戻ってきている。でも、重たいものを背負わされたような気持ちのままだ。


◎菅原さんと大友さんのこと

 11日の天気予報は「午後から雪」だった。あの日と同じように、また3月とは思えないような積雪があるのだろうか。そんな風景は否応なく、私たちを1年前に連れ戻す。遺族にとってはさらにつらい一日となるのかもしれない、と思いながら「河北新報」を開いて衝撃を受ける。「東日本震災1年 亡くなった方々(宮城県)」として掲載されている犠牲者の名前は紙面6面にも及んでいた。びっしりと記された1万人の氏名と年齢。それぞれに家族があり暮らしがあり、さらに友人や知人との交流があった、と想像すると、この大震災の死者が2万人にも及ぶという重みが胸に迫ってくる。
 紙面には、仙台市若林区まちづくり課の職員で、荒浜など沿岸部の住民の避難呼びかけの最中に津波に呑まれた大友純平さんと菅原隆さんのお名前もあった。2人は、若林区役所から広報車に同乗して荒浜に向かい、戻ってこなかった。
 私はお二人にお会いしたことがある。大友さんとは一度ご挨拶をしただけだったが、自然に関心を寄せる心やさしい方だったそうだ。まだ30代。課内の方には「子を持つ一人として、どうしたらあんなにやさしく育てられるのか、と思ってたんですよ」と伺った。
 菅原さんとはまちづくり活動をとおして話す機会も多かった。私が実行委員を務めている「お薬師さんの手づくり市」を気にかけてくれて、毎月8日の開催日には決まってやってきた。気さくでフットワークが軽くて、まちづくりにかかわる市民にとっては、何でも気軽に相談できる頼りになる市職員だったのだ。昨年の3月8日も、菅原さんは飄々とした足取りで市をのぞきにきてくれた。実はその3日前に会う機会があって、この日境内で近々行う打ち合わせの日程を相談することにしていたのだ。打ち合わせは、「じゃ、16日に」ということになった。そのあと、菅原さんは境内で干し柿を買い、仕事に戻ったらしい。いっしょに買い物をしたという人が、あとになって教えてくれた。そして、3日後に、あの恐ろしい揺れと津波がきた。
 3月25日ごろだったか、私は藤塚の人たちの避難先を知るために若林区役所に電話をして菅原さんを呼び出したのだけれど、出てはこなかった。無理を押して開催した4月8日のお薬師さんの手づくり市にも、菅原さんは現れなかった。未曾有の大震災の渦中にいて、そんな余裕があるわけはないと、区役所の戦場のような忙しさを想像し、日が過ぎていった。

◎川は空間と時間をつなぐ

 二人が津波の犠牲になったことを知ったのは、5月の連休に開催された「広瀬川で遊ぼう」の会場でのことだった。ちょうど大震災から四十九日が経つころで、「ようやく二人が南長沼で見つかった、菅原さんと大友さんが」と市職員の方にうかがい、絶句した。まさか亡くなられていたとは。
 河川敷には、うららかな春の日差しがあふれ、こいのぼりが気持ちよく風になびいていた。目の前では能を舞う人がおり、見物の人たちが取り囲み、遠くのテントには買い物する人影が見えて、子どもたちの声が響く。そこだけ切り取れば大震災のあととは思えないしあわせな光景が広がっていた。そこに集った人たちの胸中はわからなかったけれど。
 平野部を呑み込み、広瀬川をさかのぼって、命と暮らしを奪った津波。私にとって、上流と下流を結ぶ川は、街中にいて下流の被災を忘れさせない存在に変わった。そして、時間をもさかのぼり、過去の災害を想像させるものにもなった。戦後すぐの度重なる水害では、濁流に呑まれながら家といっしょに流され川に沈んだ人がいる。江戸時代、広瀬橋近くのお救い小屋には、薄い粥を求めて飢饉に苦しむ村からおびただしい人が集まってきた。この河原に、あの道端に…まちには、たくさんの死者が眠り続ける。そうした人々のための鎮魂を
思う。

◎河原にて

 暗くなるまで曇天は続いた。
 広瀬橋の下におりて川面をのぞく。水も空も重たそうな鉛色だ。川辺に立つ一本の木に2羽の鳥がいる。トンビだろうか。自然は震災のあとだからといって何も変わることなく季節を教えているだけだけなのに、人はそこに感情を投影する。2羽のトンビは亡くなっただれかで、鉛色の空は大震災1年目の鎮魂の悲しみをたたえていると見る。そうせずにはいられない。なぜなのだろう。いつもいつも自然に翻弄されてきたから、何かを読み取って自然と通じる世界をつくろうとするのだろうか。
 夜半になって、雪がふった。寒さはあの日のようだった。
 いまは、菅原さんと大友さんに、最後まで市民のためにありがとう、といいたい。