2012年2月28日火曜日

2月20日  花壇へ分け入る

藩政時代から変わらない道を通り、花壇の先へ。

 花壇取材の2日目。今野さんにご紹介していただいた浅田たかさんを訪ねたら、お隣にお住まいという高橋慶子さんもいっしょに待っていてくださった。家は花壇の自動車学校のコースのすぐ近くで、お二人とも4、50年ほど花壇に暮らされているという。浅田さんは80代、高橋さんは70代だが、快活で明るくて、いろんな話がぽんぽんと飛び出してくる。茶飲み話をするように、耳を傾けているのがとても楽しい。
こういう取材をあちこちでやり続けているうちに、耳学問というのか、私はいつのまにか昔の仙台のまちをイメージできるようになってきた。たいていお話をうかがうのは、70代、80代、ときに90代という方々だから、ときに自分が何歳なのかわからない気分で50年前、60年前の話にひたる。

この日は、高橋さんが同居していた明治35年生まれのお姑さんから聞いていたという話が興味深かった。対岸の追廻から兵隊さんが逃げてきたとか、昭和25年の水害で床上浸水したとか。高橋さんのお宅は、現在の花壇自動車整備学校の北側にあり、ここが浸水したとはにわかには信じがたいのだけれど、いまよりずっと水量が多く堤防がなかった時代のことなのだから、かつて中州だった低いところからあっという間に水が押し寄せてきたのだろう。自動車整備学校や公団アパートがあるあたりには、当時市営住宅が立ち並び、戦後すぐに立てられたにわか仕立ての建物はつぎつぎと水に呑まれたと思われる。
いまは、広瀬川が氾濫するなどあり得ないと思って暮らしているけれど、大津波のおそろしい被害がからだに刻まれた昨年3月以来、自然に向き合うときはあり得ないことなどない、と考えるようになった。暮らしの記憶を伝えることの必要も切実に感じる。都市におけるこうした語り継ぐ行為をどのように起こしていったらいいのか。せめて聞いたことは、人に話し、書き記そう。年配の人には、常に問いかけることをしなければ。

銭形不動尊へ通じる路地。向こうに青葉山を見る。
それにしても、花壇はいい。三方が川でさえぎるものがないから、広い空から光がさんさん。ここに高層ビルなんて立てるなよ、と思いながら歩く。そして、その道はまさしく政宗さんが歩いた道なのだ。銭形不動尊から入る道は両腕を広げると塀につきそうなくらい狭い。南の自動車学校のコースに向かう道もどんどん狭くなっていき、尾根道とそこから東側の住宅へのつなぎ道には高低差がある。そうそう、高橋さんからはもう一つおもしろい話をうかがった。東二番丁の旧電力ビルの工事の際、地下を掘った土をいまの公団あたりに運んで盛ったというのだ。昔はもっとアップダウンがあったのかもしれない。

2012年2月24日金曜日

2月7日 花壇に暮らして16代、今野さんを訪ねる

「広瀬川の記憶」の取材で花壇を訪ねる。
小野幹さんから出していただいた昭和35年の花壇付近の川の蛇行をとらえた写真は、仙台市街を遠望して、これから大都市へと変貌をとげていくと思わせるような躍動感にあふれている。一方で、片平丁には緑が続き、花壇の住宅地にも木が生い茂り、まだまだ杜の都の雰囲気だ。このころがよかったよねえ。つい、そういいたくなってしまうのは、超高層ビルが増え、樹木が毛嫌いされて、人が自然に寛容でなくなっているのを感じているからだ。
片平丁から坂を下り、花壇・大手町町内会の集会所を訪ねて、町内会長の今野均さんにお話を聞く。今野家は、藩政時代は鉄砲鍛冶だったという家で、均さんで16代目。均さんのお父上まで鉄砲屋だった。明治になってからは、マタギの注文に応えていたそうだ。きびしい父のもとで家業を継ぐことを期待されていたのだろうが、均さんは、「小学校のときには、どこかで自分には向いていないと思ってたよ。体も小さいし、運動も苦手で…」という。でも、すぐには信じがたい。
というのも、今野さんは、市から土地を借りて畑をつくり、地区の外からやってくるまちづくりに熱心な怪しい人々(?)ともフランクにつきあい、町外から人を呼び込んで定期市を開催して、という具合に、愉快に自在にまちに風をよびこみ、花壇大手町を元気にしよう、とここ何年か走りまわっておられるのである。
今野さんのお話は、本文でご紹介することにして、ここでは『仙台市青葉区 片平地区平成風土記』をいう本をご紹介します。A4判176ページの大著は、2年がかりで片平地区の6つの町内会の方々が足もと見つめ直し、歴史を調べ上げて資料にあたり、地元の人に聞き取りをして、文章を書いた、という労作。暮らす人みずからでつくったというところが、何といってもすばらしい。もちろん、地域の細部まで書き込まれていて、感服ものなのです。