2015年3月31日火曜日

広瀬川の記憶─南染師町を歩いて


南染師町の活気を知る人のもとへ


 「広瀬川の記憶」の南染師町の取材では、もと染物屋だったという庄司春子さんに「染物といったって、型つくる人もいれば、張る人もいる。いろんな分業があったのよ」とうかがった。今回の原稿ではご紹介しなかったけれど、南小泉で「森勘」という京染店をやっておられる森孝義さんにも、同じ話を聞いた。「塗屋さん、型屋さん、染屋さん、下絵屋さん…みんな分業ですよ」と。
 それだけの分業が成り立つのだから、南染師町とその周辺の一帯は、一大染工業の町だったのだ。それを支えていたのが七郷堀だったのであり、あらためて仙台にとっての広瀬川の存在の大きさに気づかされる。まさしく、仙台の母なる川だ。


           3月下旬の堀。水はまだ流れていない。
           田んぼには入れられずに通水されているのだろう。


           2014年6月ごろの七郷堀の水の流れ。
            天候と稲の成長に合わせ、水量は調整されている。

 「南」染師町というからには、「北」もあるのかなあ、と考える人も多いだろう。あるのです。「北」はつかないけれど、「染師町」が。奥州街道沿い、田町と北目町の間に位置していたのが、その町である。いまは、五橋の交差点の西といった方がわかりやすいだろうか。
 藩政時代までは、染師町が絹染めを、南染師町は木綿染めを扱っていた。明治になって染師町が衰退していったのに対し、南染師町は北海道、樺太まで販路を開いて力を増していった。庶民のものをつくって生き延びた、といえるのではないだろうか。そこには、七郷堀の存在もあったのかもしれない。水がなければ成り立たないのだから、目の前が堀という立地は、商売に有利に働いただろう。
 

        左手の茶色いマンションが、青山染工場跡地。堀の右手にも工場があった。
        行き来するための橋は、青山家が私費で建設したという。 


『仙台市史 特別編6 民俗』には、北海道への販路開拓は明治38年(1905)と記されている。また、南染師町に立地していた荘司染物店の聞き取りが掲載されていて「…荘司染工場での明治末から昭和15年(1940)ごろにかけての主力商品は、北海道の事業者向けの半纏(はんてん)や帆前掛(ほまえかけ)「と、仙台の問屋や呉服屋からの受注生産である絞り紺(しぼりこん)や常盤紺型(ときわこんがた)であった。」とある。
 北海道の農地の開拓や、新しい商い、そして装うことに楽しみを見出していく市民の暮らしぶりが想像できるようだ。そういえば、前述の森さんから「藍染めはヘビ除け、マムシ除けになったんですよ」とうかがった。藍染めは、農作業の現場へ、商家へ、娘さんたちの箪笥の中に、入り込んでいったのだろう。ちなみに、「常盤紺型」は、秋田の最上屋という染物店が仙台に伝えた型染めで、クリアであでやかなデザインが大いに人気をよんだ。

 大正元年(1912)発行の「仙台市全図」をみると、南染師町周辺には、「青山染工場」「荘司染工場」「武田氏店」(現・武田染工場)の3店が屋敷割も大きく記されている。また、前述の『仙台市史』には「仙台の染物は、藩政時代以来の伝統があり、南染師町とその周辺を中心に、大正末から昭和初めには企業数は七〇〜八〇戸となっていた。」とある。時代は下がって昭和33年の『仙台商工名鑑』をみると、南染師町周辺に立地している染物店は、約20店ほど。
 そして、いまも、数家の染物店が営業を続けている。「武田染工場」「永勘染工場」「川村染工場」「荘司染工場」、京染では「越後屋」など。手ぬぐいや帆前掛けの人気もあって、注文は全国から舞い込んでいるようだ。


        青山家が架けた橋。下りていくための階段が設けられている。
 

 染物屋は広い作業場を必要としたから、他の町よりも屋敷割は広くとられ、染物を干すための「ダラ掛け」とよばれた櫓があちこちに立っていた。天気のいい日は、そこに反物が下がられる。そして堀には糊と染料を洗い落とす反物が泳ぐ。大ぜいの職人さんたちが敷地で作業をし、子どもたちは堀で魚捕りに興じる。青空のもとで気持ちのいい風が吹く中、町には人の動きと掛け声が絶えなかっただろう。

 庄司春子さんは、そうした活気をいま目の前に見ているように話してくれる。「愛染明王のお祭りのときなんて子どもが100人ぐらい神輿のあとに行列なんだもの。町には住み込みの職人さんもいたし、働く人が大勢いて、みんな顔見知り。おばあちゃんたちは、いっつも縁側でお茶飲んでたのねえ」。
 そういう活気を知る人に、もっと話を聞いてみたい。
          庄司さんのお宅は、モクレンの大木が入口にそびえる。


 しかも、江戸時代以来の生業は、いまも健在なのだ。何がつながって何が消えたのか。染師たちは、どんなふうに暮らし、このまちにかかわっていたのか。聞いておきたいことは山ほどある。森孝義さんのお母さんは、仙台に常盤紺型を伝えた最上屋からお嫁にいらしたのだそうだ。
 早く、急がないと!。取材はいつもこんなふうに終わる。

2015年3月14日土曜日

七郷堀─消えていく堀


 1月の終わりから2月にかけて、七郷堀のことを話す機会があった。といっても、堀を丹念に探索しているわけでもないし、歴史にくわしいわけでもない。そうだ、とひっぱり出したのが『ふるさと七郷』という本。平成5年発刊だから、もう四半世紀も前のこの本の制作にかかわった。ちょうど荒井の区画整理事業が始まるときで、地元の大正から昭和初め生まれの人たちが、地域が変わる前に記録しようと「七郷の今昔を記録する会」を立ち上げたのだ。その会のお手伝いをしながら、機械化前の農業を知る会のメンバーの方たちに、いろんなことを教わった。


               『ふるさと七郷』1993年発行
                  企画/七郷の今昔を記録する会
                  発行/(有)タス・タスデザイン室

 何人かで手分けした編集作業の中で、七郷堀の担当になったこともあって、七郷堀の話もいろいろお聞きし、実際に堀を探索したりもした。中でも、七郷土地改良区の事務所にうかがい、事務局長の渡邊喜宣さんからは、堀の変貌やその管理について詳しくお話をいただいた。(渡邊さんはお元気でいらっしゃるでしょうか?)田んぼの仕事が始まる春、改良区の方々が愛宕堰まで出向き、堀の上に角材を入れ込んでいく「角落とし(かくおとし)」という作業に同行することもできた。 
 そのとき、頭の中に、太い血管である広瀬川から取水された水が、毛細血管のように細やかに東へと広がり、田んぼをうるおしていくイメージができあがった。堀は家のまわりにも導かれて居久根を育て、台所仕事にも使われ、子どもたちの格好の遊び場にもなっていたことも知った。
 
           堀は屋敷のまわりをめぐった。想像以上の大きな流れだ。(『ふるさと七郷』より)


 私なりの大発見は、江戸時代の絵図の七郷堀近くに「堰守」と記された屋敷があり、何と当時なお、そこには七郷土地改良区と連絡を取り合いながら、取水量を調整する大黒さんという方がお住まいだったことだ。大黒さんをたずね、そのようすを写真におさめることもできた。そのとき大黒さんに、「代々堰守をなさってきたのですか?」とたずねたら、「そうです」という答え。おそらく、七郷堀が整備された藩政期初頭から、堀を守る要職にあったのだろう。
 いまなお悔やまれるのは、大黒さんのお宅を撮影しなかったことだ。軒が低く、入ると土間で、天井はなく、堀側に向かって開かれた縁側はガラス戸ではなく雨戸と障子だった。間違いなく江戸時代に建てられた民家だったと思う。
 戦後、愛宕堰が整備されるまでは、七郷堀と六郷堀の取水口がそれぞれにあったから、上流の七郷堀に水が入ってしまうと六郷堀まわらず、渇水期には血を流すようなケンカも起きたということも教えられた。「鎌持って、愛宕堰のとこに行くのさあ」と聞いたことがある。

 この大震災のあと沿岸部の歴史を調べ、七郷堀の整備が1611年に東北を襲った慶長の大津波のあとの、復興の中で延長されていったことを知った。今回の大震災と同じような被害を受け、塩をかぶった荒地を水田にしようと鍬を手に、東へ東へと果敢に新田開発を進めた人々の歩みともに、水は村のすみずみへ運ばれていったのだ。
 しかし、こうして生まれた堀も、田んぼが消失するとき、その運命をともにする。25年前に渡邊事務局長さんから「荒井の区画整理事業が進めば、いまある堀は消えてしまうでしょうね」という話を聞いたことを思い起こす。確かめてはいないけれど、大規模な開発によって堀の多くは姿を消しただろう。いま沿岸部では、水田の再整備が進んでいる。また、ここでも長く使われてきた堀が閉じられていくに違いない。
 堀は農業用水という最大の役割を担いながら、それ以外の用途を豊かに生み出し流れていた。水辺には、かかわる人の姿があった。そんな風景が消えていく。消失は何をもたらすのか。いまは水土里ネットと名前を変えた土地改良区を訪ねて話を聞きながら、考えてみようかと思う。
 


2014年1月31日金曜日

1月25日 忘れ得ないあの子



神社の境内。堤防の工事や北側を走る県道の工事で、もともとの姿からはずいぶん変わったという。
 旅立稲荷神社の境内をもう一度みておこうと思い、翌日再び河原に行く。まるで春のようだった陽気は一転、夕方の河原には肌を刺すような空気が満ちていた。日の陰る中で寒々しい境内を眺め見る。お参りの人はなく、なんだか大ケヤキの枝もふるえているように見える。土手に上がると、対岸の工事中の市立病院の上にかかる雲の後ろから、いま沈もうとする陽が射している。堤防の下に、水の流れが一筋、白く見えた。若林3丁目の安達勝さんに聞いた話が頭に浮かんだ。

広瀬橋の下右岸では、新しい市立病院の工事が進んでいる。
 「旅立稲荷から少し下がったあたりで、川の真ん中に戦後進駐軍が大きな穴を掘ったんですよ。砂利を採るためにね。5メートルはあるような大きな穴でね、そこで子どもが亡くなってるんです。穴の中に入ると、そこで水の流れが変わって渦巻くからね。私も2回くらいおぼれかけたんですよ。小学校2、3年のころだね。泳いで助けてくれた人がいたからよかったけど」
 同じ話を旅立稲荷神社の荒井浩さんもしていた。「アメリカ兵がトラックで砂利採りしてたんですよ。プールつくるのに砂利が必要で穴を掘ったんだ。そこで子どもが一人死んだんです、近所の子がね。もう大騒ぎになって」
 安達さんと荒井さんの年齢差は8歳ほどなのだが、お二人とも戦後の広瀬川の記憶をたどると思い出す出来事なのに違いない。アメリカ兵の姿も大きなトラックも印象深かったのだろうか。もしその子が生きていたらいくつぐらいになったのだろう。75歳ほどだろうか。戦後、もう70年近い時間が経っていることを思い知らされる。


お地蔵さんも冬の装い。

 境内に戻ると、お地蔵さんがよだれかけに帽子をかぶり、首にマフラーを巻いて座っている。帽子は毛糸で、マフラーはノルディック柄だ。寒そうだからと、心やさしい近所の人が持ってきて巻いて上げたのだろうか。このお地蔵さんは、その痛ましい事故を見ていただろう。生きられなかった70年を思って手を合わせた。

2014年1月30日木曜日

2014年1月24日 下流の川で思うこと


広瀬橋たもとの旅立稲荷神社。もともとのケヤキの樹形を教えてくれるような伸びやかな姿だ。
 広瀬橋のたもとから河原に下りて、下流へ歩く。天気予報では、3月下旬並の気温になるとか。歩いているうちに気温が上がってきたのがわかった。
 歩き始めてすぐ左手に、旅立稲荷神社の大ケヤキが迎えてくれるように立っている。いつも上りの新幹線に乗るときは、このケヤキを見るために左側の座席に座る。江戸時代、参勤交代を見送ってきたケヤキだ。広瀬川を渡れば、もうそこは城下の外になる。旅立ちの不安と期待を人はこの木に重ね見たただろう。まるで球体のような見事な枝ぶり。ケヤキって素直に育つとこんな美しいかたちになるんだ、とあらためて思う。根はどのぐらいまで広がっているんだろうか。ぐんぐん地中に根を伸ばし、川の伏流水をたっぷりと吸収し育った木だ。

 旅立稲荷神社の宮司、荒井浩さんのお話をうかがったのは、昨年の6月、暑い日だった。「私が小さいときから、ケヤキは大きかったよ。2本生えて二股のようになっていたけれど、北側の一本は切られたんだ。戦後の水害のときは、広瀬橋の上から宮沢橋が流されるのを見てたよ。屋根の上で人が助けてーといいながら流されていくのも。あの人は助かったんだろうか。堤防の工事が始まったのは昭和28年。前の堤防はいまより150センチぐらい低かった。社務所から水が見えたからね」
 荒井さんは魚捕りはしなかったが、ずいぶん泳いだと話す。対岸へ泳いで渡り、宮沢橋の下で、また少し下流の宮城化学工業の下で、なんと3月から泳ぐこともあったらしい。泳ぎの達者な子には、深いところの方がおもしろいのだろうか。「あそこは深かった」という話が何度も出る。それは、前後して話をうかがった安達勝さんも同じ。いままで、広瀬川の取材でいろいろな方にお会いしたけれど、ここまで具体的な場所を指し示して、「あそこは…」と話す人はいなかったことを考えると、やはり下流は人との接点が多いのだと思う。下流域の人にとっては、流れはすぐそこにあるものなのだろう。

古くからの農家だろうか。大きな畑があった。
 歩いていくと、新しい住宅やマンションの間に、畑を構えた農家とおぼしき屋敷や、昭和30年代に立ったと思われる住宅があらわれる。田畑の中に工場が立地し、そのまわりが宅地化されていったのが、いま工場は撤退し、その跡地はマンションやスーパーになりつつある。ゼラチンの生産で知られる宮城化学工業の跡にはマンションの工事が始まっていた。高い建物が増えて、やがて視界をさえぎるなるのだろうか、と心配になりながら、対岸の八本松マンションを仰ぎみる。巨大な軍艦のような建物が川岸に立つことが決まったとき、反対する人たちはいなかったのだろうか。


対岸に立つ八本松マンション。
宮城化学工業跡地にも大きなビルが建設中だった。
 空間の認識は変わってゆく。かつては大きなマンションが新しい時代のシンボルだったのかもしれない。でもいま、これだけ建物が高層化、密集化する中に暮らしていると、遠くまで見通せる開放感あふれる空間がいかに貴重なものか、下流の河原を歩くとその実感がわき起こる。
 犬を連れてやってきて、誰もいないのを見ると10分ほどリードをはずして遊ばせる人がいた。右から左へ、全力疾走のわんちゃん。飛び跳ねてよろこぶ躍動感がこちらにも伝わってくる。何台か車が止まっていて、近づくとこちらはゲートボールに打ち込む男性グループ。静かな一人の散歩の人がいれば、スロージョギングの人もいる。いろんな過ごし方を、下流の川は受け止めている。

千代大橋のアーチを望む。


2013年3月1日金曜日

西公園に子どもたちを放つ


 西公園のことを市役所に聞きにいったら、「いまは、市民から木を伐ってくれ、落ち葉がじゃまだという苦情が多くてね」という話を聞かされた。私は、杜の都のお寒い現実を感じているので、ため息が出る。「杜の都仙台」を標榜していたって、もはや市民の多くは木が嫌いなのだ。たぶん。厄介者扱いされる樹木。かわいそうに。

 西公園の緑、そしてその崖の下に流れる広瀬川を愛し、最大限に活用している人はいないかな、と考えて、すぐ関口怜子さんが浮かんだ。関口さんは、西公園の真ん前で、子どものための美術教室を開いている。美術といっても、子どもたちを西公園に放って、土に触れ、葉っぱを拾い、幹を見上げて、そこからみずからの体で発見したものを描くという教室だ。
西公園の木々を眺めながら話す関口怜子さん

 久しぶりにうかがうと、公園に向かって開かれた窓の前で、相変わらず元気なハリのある顔で関口さんはいった。「うちの教室は公園がなかったらやっていけないのよ。庭のようなものね」
 子どもたちが描いた樹木を見せていただく。一本の木を描く子、寄りそうに立つ木を描く子…それぞれ違っているのがいい。
暖かい日だったが、遊具で遊ぶ姿はない
 
木の下にはまだこんなに雪が残る

 西公園にはまだ雪が残っていた。でも、どこかおだやかな陽射しに、春が近いことを感じる。南端の「殉職消防組員招魂碑」まで歩いていくと、いたいた猫さんたちが眠そうに落ち葉の中にうずくまっている。12月末にきたとき出会ったサビ猫と白猫もいる。このきびしい冬を越せてよかったね、と声をかける。でもあの日、物語を紡ぎだすようにあらわれた、グレイの縞猫がいない。ちょっと気がかり。

落ち葉で惰眠をむさぼる猫さん
               

12月22日 西公園で出会った猫さん


 みるみる日は過ぎる。このブログもずいぶんと休んでしまいました。気が付けば冬が過ぎ、また芽吹きの季節がめぐってこようとしている。

 「広瀬川の記憶」。小野幹さんが焼いてくださった写真の中に、西公園を写したものがあった。撮影は昭和52年。すでに何度か取材してきた西公園だけれど、今回の写真には、植木市らしき出店が写っている。27回目のテーマ写真にしてみようか、樹木をテーマに何か書けるかもしれないな、と考え、公園を歩いてみたのは12月22日のことだった。
 夕方、ページェントでにぎわう定禅寺通をかすめ西公園に入ると、コンテナやイルミネーションの準備がなされてイベント会場の雰囲気はあるものの、閑散として店の人たちの姿があるだけ。静かだった。
 公園は、最後の紅葉が散る直前。地面は赤く染まり、ところどころには緑の草も残って寒々しい風景にはなっていない。市民図書館として使われていた建物がすっぽり姿を消しているのを確かめた。図書館の前にあった池のまわりを歩いてみる。西公園は3つの大きな武家屋敷を整備してつくられた公園だけれど、この庭はだれの屋敷のものだったのだろう。
 南端に「殉職消防組員招魂碑」と刻まれた大きな石碑が立っている。“消防”という文字を見ると、反射的に、この大震災で住民の避難誘導のために命を落とした人たちのことが胸に浮かぶ。私自身は震災で直接的な被害を受けたわけではないのに、やっぱり何かを負わされているような感覚がある。

旧市民図書館前にある庭。池の跡を歩く。

どこからかあらわれた猫さん
                    
友だち同士で公園をお散歩

 と、グレイの縞がきれいな猫さんが現れた。近づいても逃げない。ゆっくりと川岸を歩いて行くので付いていくと、どこからかサビ猫が出てきて2匹であいさつを交わしている。おや、友だち同士なんだろうか。1匹の猫が二匹になったとたん、そこに物語が生まれる。不思議だ。
 友だちなのか、兄弟なのか、恋人なのか…
そんなことを想像していると、かんじんの
取材はどこかに行ってしまった。

 そこへ、もう一匹、今度は白猫。3匹になると関係はますます複雑になる。物語はこうやって生まれて一人歩きを始めるのだろう。
 
やがて3匹の猫たちは、それぞれの気にいった場所でうずくまった。最初の猫は切り株の上を自分の場所と定めたらしく、沈む陽を見上げている。猫の公園の使い方。

切り株をベンチにしてひと休み


2012年3月30日金曜日

北帰行、そして春をむかえて

 週末の大雪に驚きながら3月が過ぎた。長くてきびしい冬だった。川が凍っているのを宮沢橋の上から見たのは2月下旬くらいだったろうか。左岸から右岸まで、凍った上に雪が降り積もり、真っ白な川面が光に照らされて輝いている。信号待ちで停車中だったのだけれど、初めて見る広瀬川の表情に、ついうっとりと見とれた。
 宮沢橋の下を、飛来した白鳥がねぐらにしていて、夕方4時ごろになると川岸に何羽も戻ってくる。その時間を見計らってか、川岸には餌をやる人の姿もあった。3月はじめのテレビで、今年の白鳥の北帰行は遅れる、たぶん3月下旬まで白鳥はとどまるだろう、というのを聞いた。シベリア高気圧が発達し、例年にない極寒の天気に白鳥たちも北へ戻れないというわけだ。
 その日から、橋を通るたび白鳥を探し、今日はまだいる、と確かめる日が続いた。春の彼岸に入っても白鳥はいた。18日にも、20日にも川岸にその姿を確かめた。23日の夕方、橋を車で通りながら川面をのぞくと白鳥の姿が消えていた。北帰行は、この日だったのではないだろうか。
 何羽もの群れが、ひたすら北へ向かいながら、その小さな光る目に何もなくなった海岸線の風景を映すのを思い浮かべた。一羽も脱落することなく飛べ。そう願わずにいられないのは、自然の猛威をこの大震災で思い知らされたからか。
 白鳥のいなくなった川は、からっぽになったように見えた。でも、目をこらせば水鳥が、風でさざ波の立つ川面を忙しそうに動いている。
 3月30日。仙台の気温は20度をこえた。ようやく水がぬるむ。今年の春は水鳥の名前を覚えよう、と中州が取り払われ広くなった川を眺めながら思う。